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本物の航路をひらく“仮想の船”—商船三井グループの操船シミュレータを支える船体運動モデルとは

作成者: 商船三井|2026年08月24日

実際のブリッジ機器と映像装置で操船環境を再現し、訓練や港湾利用条件の検証などに活用されている操船シミュレータ。港に新しい大型船は安全に入れるのか、風速や波高の許容範囲はどこまでなのかといった、安全な航海に必要な判断を支えています。
そしてシミュレータの中核を担うのが、船の動きを数式で表す「船体運動モデル」です。
商船三井マリテックス シミュレータ技術部 部長・加藤 仁平氏は、操船シミュレータ・船体運動モデルの開発に約20年携わるエキスパート。船体運動のモデル化技術と、その活用について加藤氏に聞きました。

安全な航海を支える操船シミュレータ

― そもそも操船シミュレータとはどのようなものですか?

加藤
操船シミュレータとは、船のブリッジ(操縦室)を実機のハードウェアを使って再現し、その周りをスクリーンで囲って操船環境を仮想的に再現した装置です。たとえば田町にある当社の操船シミュレータルームでは、景観映像を円筒形の壁面と床平面の大きなスクリーンに複数台のプロジェクターで投影する方式を採っています。立体的に広がる映像の中に立つと、本当に船のブリッジにいるような感覚になります。

田町にある操船シミュレータルーム(イメージ)
(出典:商船三井マリテックス)

ハードウェアとしては、舵、テレグラフ(エンジン出力を指示する装置)、レーダー、ECDIS(電子海図情報表示装置)、通信装置、各種航海計器など本物と同じものが並びます。そこに、風・波・潮流・視界・他の船舶といった周囲の環境を再現するソフトウェアと、それらの力を受けて船がどう動くかを計算する「船体運動モデル」が組み合わさって、ひとつのシミュレータシステムになります。

左から操舵スタンド、レーダー、ECDIS。実船同等の航海機器を用いた操船環境
(出典:商船三井マリテックス)

 

― どんな方が、何の目的で使うのですか?

加藤
主な使用者は商船三井グループの船長や航海士など。本物の船に乗る前に船長を含めたチームがそろって訓練をする、BRM(ブリッジリソースマネジメント)と呼ばれる、チームとしての意思決定や連携の訓練が中心です。つまりシミュレータは、ここでは精密な操船技術を磨く場というより、リアルなブリッジ環境を舞台装置として使う事も多いです。

田町にある操船シミュレータルーム(イメージ)
(出典:商船三井マリテックス)

 

また、操船シミュレータは海事コンサルティングでも活用されています。海事コンサルティングとは、港湾や航路の安全性を技術的に検証・評価するサービスです。たとえば新しい港に大型船が安全に入港できるかどうかなど、現場調査をもとに再現した環境でシミュレーション実験を行い、「風速が秒速何メートルまでなら入港可能か」「波高の許容限界はどこか」といった入港条件の基準を、関係者が集まる安全性検討のための委員会などで根拠をもって議論・決定するために活用されています。

 

「根拠ある偽物」という哲学

 

― シミュレーションには、どの程度の精度が求められるのでしょうか?


加藤
ここは誤解されやすい点ですが、海事コンサルティングで求められるのは「現実の完全な再現」ではなく「根拠のある判断を下すための材料を作ること」であり、意思決定を支える品質を確保することが、私たちの仕事です。

委員会でとある先生がおっしゃっていた言葉で、非常に腑に落ちたものがあります。「シミュレータの船は偽物だ。ただし根拠ある偽物だ」という言葉です。そもそも現実の完全な再現は、少なくとも現時点では誰にもできません。たとえば港内操船の場面を考えてください。6ノットで入港してくる船が、斜め前から12メートル/秒の風を受け、1メートルの波がずれた角度から当たり、潮流は逆に流れていて、タグボートで後ろに引っ張りつつ舵を取りながらもエンジンは止めている……など、世の中にこうした複合条件でその船が実際どう動いたかというデータは、検証に使用できる体系的な形ではほとんど存在しません。

シミュレーションと現実の間に誤差が生まれることは前提で、重要なのは「シミュレーションにどの根拠を用いたかを明確にし、議論の土台をつくること」なのです。そして、その「根拠」を組み立てる鍵を握るのが、「船体運動のモデル化」技術です。

 

商船三井マリテックスの操船シミュレータを動画でご紹介しています。
(出典:商船三井公式You Tubeチャンネル

力を数値化し、船の動きを導く「船体運動のモデル化」技術

― 「船体運動のモデル化」とはどういう技術ですか?

加藤
一言で言うと、船がどう動くかを数式で表現する技術です。具体的には、プロペラが回ることで生まれる推力、舵に当たった水流が生む横方向の力、スラスター(横移動用の推進器)の力などが自分の船が出す力です。それに対して、風・波・潮流、水深が浅い場合に増える抵抗(浅水影響)、タグボートが押す力・引く力といった外から受ける力も加わります。航空機も風などの影響を受けますが、船は船体が水中にあるため、考慮すべき変数は非常に多くなります。


船体に作用する力は主に【面積x速度x係数】で計算される
(出典:商船三井マリテックス)

これらすべてを組み合わせた「力の合計」から、加速・減速・旋回・横流れ・停止といった船の動きを計算する「運動方程式」を解くのが、船体運動モデルの基本です。方程式の形そのものは確立されており、重要なのは、そこに入れる係数をどう決めるかです。

― 係数はどうやって決めるのでしょうか?

加藤
その船固有の係数を導き出そうとすると、大掛かりな調査が必要です。造船所の研究所では、縮尺模型を試験用プールで走らせてセンサーで計測し、その船に固有の係数を導き出すこともあります。ただ、それだけで大きな費用がかかり、時間も半年以上かかる場合も。コンサルティングの業務としては、毎回それを実施するのは現実的ではありません。

そこで実際に使うのが、過去の研究や論文で社会的にオーソライズ(公認)された係数です。「この船種でこのサイズならこのあたりを使うのが妥当」という指標がいくつかあり、委員会の場でどの係数を使うかをあらかじめ合意したうえで話を進めます。質問があったときに「この論文に載っているこの係数です」と根拠を示せることが大切です。
ただし、参照先が決まれば、それで終わりというわけではありません。選んだ係数を使いながらも、可能な範囲で実際の船に合わせて調整する作業こそが、この仕事の核心です。

 

パズルのような係数調整の現実

 

― 係数を調整する作業は、どのように進めるのですか?

 

加藤
一番わかりやすい比喩はルービックキューブです。ある面を揃えようとしてキューブを回したら、もともと揃っていた別の面がバラバラになってしまいますよね。あれと同じことが、係数の調整でも作業中に頻発します。

例を挙げると、計算上は「旋回半径が小さい船は回頭*1が止まりにくく、旋回半径が大きい船は回頭が止まりやすい」というのが基本です。ところが実際の船では、小回りが利く一方で回頭がすぐに止まってしまうなど、単純な計算通りにはいかないケースも多数あります。これを再現しようと係数を調整すると、今度は別の問題が生じます。舵の係数はほぼ固定で触れない、船体のモーメント係数をいじれば旋回の再現が崩れる……という具合に、どこかを直せば別のどこかがズレる。それを一つひとつ、粘り強く調整していきます。

(*1)

回頭とは、船の向きを変える動作を指します。回頭が止まりにくいとは、一度回り始めると回り続ける性質を、回頭が止まりやすいとは、回りすぎず制御しやすい性質を意味します。

係数調整の難しさは、ルービックキューブのようなもの
(画像:AI生成(イメージ))

また、海上公試(シートライアル)の結果との照合も一筋縄ではいきません。海上公試は実際の海上で行われるため、結果として纏められたものは補正が入っていますが、風も波も潮流も混じった状態での結果です。一方、モデルの動作確認は完全に風も波もない穏やかな条件で行います。
加えて試験時と運航時とは載荷状態も違うため、両者を完全に一致させること自体が無理な話です。どこまで合わせるべきかを見極め、その判断を下すことも、この仕事に求められる技術のひとつです。

―そのほかにも難しいポイントはありますか?

加藤
参照できるデータの少なさという問題があります。特に運動モデルが重要になってくるのは港内操船の場面です。タグボートを使いながら離着岸するこの領域は、外洋航行と比べて技術の進歩が非常にゆっくりで、データの蓄積も進んでいません。外洋での船の動きの研究は、省エネ技術の開発とも直結するため需要が高く、研究は進んでいると思います。一方、港内操船にはそうした追い風がないのが現状です。

たとえば港内操船で重要な浅水域の抵抗特性(水深が浅くなるほど船の動きが鈍くなる現象)の根拠として業界で広く使われているのが、1970年代に「エッソ大阪」というタンカーがメキシコ湾で行ったテスト結果です。それ以降、実船を使い計画的に行われた実験データはほぼ存在しません。計測技術が今ほど発達していない時代のデータではありますが、それでもなお業界で参照され続けているほど、実船での実証データは貴重で得難いものなのです。

2025年にオープンした商船三井の体験型ミュージアム「ふねしる」。リアルな操船を体験できるシミュレータ室は、加藤氏がシミュレータの設定および空間デザインを手掛けている。
(出典:商船三井ミュージアム「ふねしる」公式HP
 

難解なパズルのその先に。仮想の船が、本物の航路をひらく

― これからシミュレーション技術はどう進化すると考えますか?

加藤
AIの活用も検討していますが、よく誤解されるのは「AIを使えば急にリアルなシミュレータができる」という期待です。しかし、AIも参照するデータは私たちと同じ限られた論文や公試結果です。AIに期待できるのは、根拠をより説明しやすく、再利用しやすくする方向です。たとえば係数を選定した理由を可視化して「ここはこの論文を参照した」という説明を整理しやすくすること、あるいは作業の効率化、過去に作ったモデルとの比較をやりやすくすることなどです。

港内操船モデルが一気に現実に近づくというよりは、モデルを作る作業の信頼性と効率を少しずつ高めていく。そういった着実な積み上げが、この分野では重要だと思っています。

― この仕事のやりがいはどんな瞬間に感じますか?

加藤
やっぱり、パズルが解けたときは楽しいですよ。あとは、コンサルティングに携わった委員会で「この条件ならいける」という結論に貢献したシミュレーションが、現実の安全運航につながった瞬間です。検証した港に実際に船が入ったというニュースを見たときは、純粋にうれしいですね。シミュレータの船はバーチャルなものでも、その結果が本物の航路をひらく。そこに、この仕事の意義があると感じています。

虎ノ門本社にある実船と同等の操作感を備えたDPシミュレータ
(出典:商船三井マリテックス)

海事に関わる今日と未来を―商船三井マリテックス株式会社のご紹介

商船三井マリテックス株式会社は、2025年4月1日に商船三井グループの3社(MOLマリン&エンジニアリング株式会社、商船三井オーシャンエキスパート株式会社、MOLシップテック株式会社)の統合により誕生した、海事技術の専門集団です。
社名“Maritex”には、海事(Marine)と技術(Tech)の融合、そして専門家(Expert)としての誇りと未来への挑戦が込められています。3社の強みを掛け合わせた「X」は、未知への挑戦と可能性の象徴です。

商船三井マリテックスは、デジタルを核にしたマリンテクノロジーのエキスパート集団として、以下のような多岐にわたる事業を展開しています 。

商船三井マリテックスは、海事技術の未来を切り拓く専門集団として、グローバルな海運業界の発展に貢献してまいります。安全・効率・革新をキーワードに、確かな技術力と柔軟な対応力で、お客様の多様なニーズに応えていきます。
今後とも、商船三井マリテックスの挑戦と成長にご期待ください。