2025年01月22日
モーリシャス沖での事故を機に、商船三井は企業が果たすべき役割を見つめ直し、環境保全や地域社会支援に積極的に取り組んできた。美しい自然環境を守り、現地住民との信頼関係を築きながら、8億円規模の支援基金を設立。この活動は、単なる支援を超え、商船三井の社会貢献活動を新たなフェーズへ進めるひとつのきっかけとなっている。
「空港に到着し、そこから車に乗って海岸線を走り始めると、タイベックを着た作業員の人たちが油まみれになりながら漂着した燃料油を回収していました。その光景を見たときは、言葉がうまく出てきませんでした」。そう話すのは、2020年7月にインド洋の島国モーリシャス沖で起きた貨物船「WAKASHIO」による座礁事故の後、第3次派遣団の一員として現地で緊急支援活動に参加し、現在は現地法人MOL (Mauritius) Ltdの代表を務める菅野一彦だ。
この一帯には、美しいサンゴ礁やマングローブ林が広がっており、ラムサール条約に登録された湿地もあったことから、当初は、自然環境への深刻な影響が心配されていた。
「ただ、被災地であるモーリシャスの人たちが、当然抱いているであろう複雑な感情を表には出さず、『自分たちのために遠くからよく来てくれたな』と迎え入れてくれ、とても救われた思いでした。本当に海が綺麗な場所で、どんな理由があっても、こんなところを油で汚すようなことがあってはならないと感じたことを今でもよく覚えています」(菅野)
MOL (Mauritius) Ltd Managing Director 菅野 一彦
そこからは怒涛の日々が続いた。現地法人MOL (Mauritius) Ltdを開設し、迅速なダメージ・アセスメントを目的とした国内の研究機関や複数の現地NGOへの直接寄付として約1億円、派遣団体及び現地法人設立等の人的支援に係る費用として約1億円、そして自然環境保全・回復及び地域社会貢献プロジェクトなどを支援する基金への拠出として約8億円の支援を行ったのだ。基金は当初、日本国内で「公益信託」の設立を計画していたが、開設までに時間を要することが判明。できるだけ機動的な対応が求められると考えた結果、まずはモーリシャスに「MOLチャリタブルトラスト」を開設し、その後公益信託を設立することになった。後にこの2つの基金は、認定特定公益信託商船三井モーリシャス自然環境回復保全・国際協力基金(以下、公益信託)が「大規模かつ長期的(1〜5年)なプロジェクトをサポート」、MOLチャリタブルトラストが「小規模かつ短期的(1年)で緊急性を要するものやプレプロジェクトをサポート」と、それぞれ異なる特徴をもつことになる。加えて、これらの基金では、自然環境の回復や保全だけでなく、油濁事故により影響を受けた地域で暮らす人々の生活向上や女性のエンパワーメントなどについても積極的に支援していくという方針が定まった。
「そもそも基金という形での支援を選んだ理由は、支援先の選定が公正で透明性のあるプロセスを経るためです」と菅野は説明する。
ただ、最初は各分野の専門家やNGOを見つけることも容易ではなかった。
「海運会社で働く者として、船のことには詳しいと自負していました。しかし、マングローブやサンゴのこと、ましてや鳥のことになると全く何をどうしてよいかわかりません。とにかく問題を解決するために話を聞くべきライトパーソンやライトコミュニティを探す必要があると考え、事故のすぐ後に日本政府から緊急援助隊として派遣された各分野の専門家の方々に協力を仰ぐと共に、モーリシャスにおいても派遣団が在モーリシャス日本国大使館や在モーリシャスの企業からサポートを得て、有力なNGOとの関係を作っていきました」(菅野)
その結果、MOLチャリタブルトラストの運営委員には、会社の経営者や、気候変動/環境保護の専門家、言語/歴史学者など、複数のモーリシャス人が、また、公益信託の運営委員には、当時、政府からの派遣団で現地を訪れた専門家たちが、それぞれ名を連ねることになり、現在も、彼らの意見を参考にしながら助成先の採択が行われている。
一方、現地との良好な関係性構築に寄与したと考えているのが、事故の後、わずか3ヶ月で開設に至った現地法人MOL (Mauritius) Ltdの存在だった。設立時に掲げたスローガンは「NOU AVEC ZOT(ヌー・アベク・ゾーッ)」。これはクレオール語で「いつもあなたのそばにいます」という意味だ。モーリシャスでは英語が公用語になっているが、新聞の多くはフランス語で書かれ、日常会話でよく話されるのはフランス語が少し変化したクレオール語である。つまり現地の人たちにとって最も身近な言語で、「商船三井は決してモーリシャスからいなくならない」という強いメッセージを打ち出したのだ。
「現地法人を設立したことで得られたものを一言で表すのは難しいですが、もし我々が出張ベースで対応していたとしたら、同じ支援をしていたとしても現地の人々の反応は異なっていたでしょうし、そもそも今のような形で役割を果たすことは難しかったと思います。今でも時折、『法的責任がないのになぜそこまでやるのか?』と指摘されることもありますが、ここにいるからこそ、信頼してもらえること、見えたり聞こえたりすることがたくさんあるので、その重要性は今後も変わらないと考えています」(菅野)
事故から4年が経ち、各基金による支援活動も、3年目に入った。支援の対象は大きく分けて2つ。マングローブ、サンゴ礁、野鳥を主とした自然環境並びに生態系の回復保全に関わる活動(環境保全活動)と、漁業、観光産業、文化、地域発展、教育などを主としたモーリシャスにおける地域社会の発展に向けた活動(社会貢献活動)で、現在、どちらも複数のプロジェクトが順調に進行している。
主だったものをいくつか紹介すると、まずマングローブに関するもの。マングローブ林は幸い、目に見える形での大きな被害は確認されておらず、信頼できるNGOによる長期的なモニタリング調査が現在も継続中だ。これについては毎年のプロジェクトレポートに「変化なし」とあるのが我々にとって何よりの朗報である。現在はそれに加えて、より良い復興を意味するビルド・バック・ベターの考えに則り、新規植林に取り組むNGOへの支援なども積極的に行っている。
現地NGOによるマングローブ林の調査
サンゴ礁については、こちらも油流出による影響は、懸念されたほど大きくなかったが、事故のあった付近のサンゴの保全を目的として、ナーサリーを設けて避難させたサンゴを成長させてからまた元の場所に戻すプロジェクトに取り組むNGOへの支援を続けてきた。現在は成長したサンゴを元の場所に戻している最中だ。新たな取り組みとしてはモーリシャスの研究者のキャパシティ・ビルディングに取り組むグループへのサポートがあげられる。具体的には、分析機器の提供や解析手法の教育などを行っており、すでに温暖化の影響を受けにくい種類のサンゴが発見されたり、観光に関わる事業者や地元住民を巻き込んだ展開なども進行中だ。将来的にはこのモーリシャスでの取り組みが、世界的なサンゴ保全のモデルケースとなっていくことを期待している。
一方、地域社会の発展に向けた活動で不可欠だったのは、今回、事故による影響が最も大きかった、漁業で生計を立ててきた人々へのサポートだ。その中の一つが、彼らの生活向上を目的としてブルーエコノミー開発に取り組む日本の大学の研究グループへの支援である。
「この研究グループが行ったのは、現地の漁民たちに『神経締め』などの高度で効率的な魚の締め方や正しい鮮度管理の方法を教えることでした。場所によっては獲った魚の鮮度管理がされることなく、炎天下の元、そのままの状態で道端で売られていたそうです。アイスボックスもないのでハエが飛び交い、売れ残った魚はその日のうちに捨てるしかありませんでした。この取り組みでは、彼らが鮮度管理の知識を身につけることで、魚の消費期限が長くなり、且つ経済価値が上がることにより生活レベルを向上させていくことを目的としています。また、今後こうした知見が地域全体に広まっていけば、皆が不要に多くの魚を獲る必要もなくなっていくはずであり、海洋資源の保全という観点からも意義のあるプロジェクトとして発展していくことを期待しています」(菅野)
このように社会貢献活動においても環境保全活動同様、一過性ではないサステナブルな取り組みへの支援を心がけてきた。この他にも、漁業や観光業など海洋資源に頼った生活を送っている人たちが多く、コロナや今回の事故で経済的に苦しい状況にあったモーリシャスの女性たちに、読み書きやパン作り、裁縫といった技能習得プログラムを提供しているNGOを支援するなど、女性の教育機会や社会進出を推進する活動にも強い関心を持って取り組んでいる。環境回復に関する対応が一定程度落ち着いた現在、こうした傾向はさらに顕著になってきている。
では、意識的に採択のプロセスと距離を置いてきた我々が、原資の拠出以外にどのようなインパクトをモーリシャスの人々に与えてこられたのか。それは偏に、異なる分野の専門家たちの間を取り持つことで、知の融合を引き起こし、新しいプロジェクトが生まれる場を作り出したことだと言える。
「私たちがここに来る以前は、例えば、マングローブ林の保全に取り組むグループとサンゴ礁の保全に取り組むグループが情報共有を図るということはとても稀なことだったと聞いています。というのも、活動資金を寄付や基金から得ている彼らにとって、近しい領域で活動するグループというのは互いに競争相手と考えられてきたからです。しかし今回のように沿岸域生態系の環境保全を絶対目標とする場合、当然、山も川も海も全部繋がっていますから、その縦の連携こそが重要で、彼らが一緒に議論し合うことに大きな価値があると我々は考えました」(菅野)
そうした考えのもと、サポートしているNGOのメンバーたちに集まってもらいワークショップや報告会などを定期的に開催してきたわけだが、徐々に交流が活発になり、新しい価値を生み出すコラボレーションなどもあちこちで誕生しつつあるようだ。またこのことは、地域の発展と環境保全の両立を目指す際にも欠かせない考え方であり、実際にここでは、環境保全活動をしているNGOと社会貢献活動に取り組むNGOが協力し、子どもたちへの環境教育や地域住民の啓蒙活動が一体となった環境保全のプログラムなどが立ち上がっている。
異なるNGOが集まり共同でワークショップを実施
「このオーガナイザーとも言えるポジションは、当初から想定していたというよりは、ここで自分たちが果たすべきことは何かと考え、活動を続けてきた中で、自然と担うようになった役割だと思っています。それが最近になって、現地の人たちからもそうした役割を求められる機会が増えていて、我々としてはそのことをとても嬉しく感じています」(菅野)
2022年には、外航クルーズ客船「にっぽん丸」によるモーリシャスクルーズも実施され、当社が基金を通して支援しているNGOによるマングローブ林の散策プログラムや、社会福祉施設などを見学して周るオプショナルツアーが設けられ、現地で大きな話題となった。
環境・サステナビリティ戦略部の太田加奈子は「今回、モーリシャスの首都ポートルイスに4日間滞在するという長めのスケジュールだったのですが、停泊している間に島内の観光やNGOが運営する施設訪問プログラムを行い、乗客の皆さまに様々な体験をしていただきました。社会福祉施設の訪問は大変好評で、クルーズ船のお客様の社会貢献活動に対する意識の高さを感じました。モーリシャスはターコイズブルーの海や、豊かなマングローブ林など、美しい自然が身近に感じられる場所です。日本からの距離は遠いですが、日本の方々にもモーリシャスの魅力が伝わるといいなと思っています」と話す。
「船の安全運航」は、海運業という社会インフラを担う商船三井にとって、常に変わることのない重要な課題である。その意味で、2020年に起こったWAKASHIOの事故は、我々の事業基盤を揺るがしかねないものだった。図らずも、グループ全体でサステナビリティ経営を強化しようとしていた矢先に直面したこの難局は、船による事故が、自然環境や地域社会の人たちに与える影響を否応にも意識することとなり、またそうした場面で当社や当社で働く人間が果たすべき役割について、全社員が自分事として考えるきっかけにもなった。
「これこそが、当時『踏み込んだ対応』と言われることも多かった事故後の対応によって、私たちが得られた大事な気づきだったのかもしれません」と菅野は言う。傭船者も事故の当事者意識をもって再発防止に全力で対策を講じる必要がある、という意識が社内で自然に広まったのは、以前ではなかなか考えられないことだった。
「あの日以降、社内で事故を何度も振り返る機会があり、その経験が社員一人ひとりの意識や認識を変えたのだと思います」。サステナビリティ推進力強化の一環として、2021年4月に新たに立ち上がった環境・サステナビリティ戦略部の長島歩はそのように振り返る。
一人ひとりの意識の変化は、会社全体にもさまざまな影響をもたらした。例えば、今回の事故で大きく進んだのがバリューチェーンの見直しだ。以前だと役割を終えた船は、一定の条件のもと一番高く買い取ってくれる解撤業者へ売却し、譲渡後のことについてはあまり関与してこなかった。今は、解撤作業員の人権、労働環境や、解撤ヤードでの環境汚染抑止、保全への取り組みなどの当社基準を設け、書面、規定、面談、現地調査を経て、解撤ヤードの選定を行うようになった。「果たすべき役割」を再点検し、規制や第三者に頼りきりにせず、譲渡先を選択“できる”立場として、譲渡先やステークホルダーに向き合って取り組んでいる。
「コロナでリモートワークやウェブ会議が当たり前のことになったように、事故以降、いわゆる『会社として果たすべき役割』について考えることが、商船三井ではごく自然なことになりました。そしてそれに伴い、いわゆる企業の社会貢献やサステナビリティ、バリューチェーンについて社内で検討する際のスピード感や質も格段に向上したと感じています」と菅野は話す。
「WAKASHIOメモリアルデーというイベントを、事故以降も毎年続けてきたのですが、今年はそれを『社会貢献を考える会』として少しリニューアルして開催しました。この後継イベントでは、これまでのようにモーリシャスにおける取り組みをグループ内で共有することに加え、我々がモーリシャスで得た学びを生かしてこれからどんなことができるかを考える場として発展させていきたいと考えています」(長島)
2024年3月には、国内外のグループ会社の若手社員を対象に、「MOL Group On-site training in Mauritius」と銘打ったモーリシャス現地での研修も実施した。実際に事務局として研修に参加した環境・サステナビリティ戦略部の伊藤萌夏は「座礁事故現場海域の視察や当社基金の支援プロジェクトの訪問、サステナビリティに注力している現地企業とのワークショップなどが行われ、安全運航や海洋保全の重要性を再認識するとともに、サステナビリティ課題に取り組む意義を体験しながら考える良い機会となりました」と話す。
モーリシャス研修の様子
商船三井グループでは近年、サステナビリティを経営戦略のコアとして掲げており、環境・サステナビリティ戦略部でも、「海洋環境」(海洋生態系の保護や海洋汚染の防止など)、 「次世代人財育成」(海事教育機会の提供など)、「地域課題解決」(事業で関わりのある地域の課題解決や災害・紛争への支援など)を重点分野に設定して、活動を展開しているところである。企業が担うべき役割は、時代とともに変わっていく。時代の変化に対応し、時に先駆けて意識を変えていくこと自体が、企業が果たすべき役割のひとつなのである。
左から、環境・サステナビリティ戦略部 社会貢献推進チーム
伊藤萌夏、太田加奈子、長島歩
現在、虎ノ門本社ビルの1階には、モーリシャスの海をイメージした水槽が設置されており、
実際にモーリシャスの海に生息する種のサンゴや魚を見ることができる。
※本記事は2024年9月に実施されたインタビューを基に作成しています。
2022年06月28日
2021年03月10日
2021年04月13日
2021年10月12日
2021年05月14日
2025年01月22日
2025年01月09日
2024年12月13日